広報なかがわ No.113

広報なかがわ No.113 page 17/18

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17広報なかがわ平成27年月10日2馬頭郷校文武館江戸時代になると、全国各地に藩独自の教育施設として「藩校」が設立され、人材のはんこう育成が図られました。水戸藩第九代藩主徳川斉昭公は藩政改革のひとつとして教....

17広報なかがわ平成27年月10日2馬頭郷校文武館江戸時代になると、全国各地に藩独自の教育施設として「藩校」が設立され、人材のはんこう育成が図られました。水戸藩第九代藩主徳川斉昭公は藩政改革のひとつとして教育の振興に力を入れました。藩校の設置にも積極的に取り組み、水戸藩では天保十二年(一八四一)に「弘道館」が開館しています。また、藩校の設置と並行して藩内に十五校の郷校が設置されました。そごうこうのなかのひとつである「馬頭郷校文武館」は安政四年(一ぶんぶかん八五七)に落成しています。現在の馬頭小学校の場所にありました。当初は、武茂城跡への設置も検討されましたが、雪や雨の日には向かうのが困難なこと、建設資材の搬入などの問題から武茂城のふもとに決まりました。安政年間に書かれた「馬頭町絵図面」にも「文武館」として描かれています(写真)。絵図には正面に本館と思われる大きな建物があり、その西側に長さ約三十七m、幅約十五mの矢場、入口付近には鐘楼、門番小屋、北側には文庫などの施設があったことがわかります。多くが地元の郷医(地方医)、郷士、神官、村役人などの地ごうし方の有志を教育の対象としていました。そのため教科には論語、医書、神典、日本書紀などの講釈が中心でした。しかし、当時の社会状況も反映し、炮術や剣術なども課され、軍事教育の場としての性格が強まっていきました。郷校が開かれる以前は、大子(大子町)や野口(常陸大宮市)にあった郷校に出席しています。当時、藩の財政は非常に厳しく、残された古文書からは地元の郷士、村役人、富裕者たちの負担によって建設されたと考えられます。開校日には、聴聞者、見学者含めて百名を超える人々が集まり、文武の披露に参加し、盛大に祝われたようです。しかし、幕末の騒乱のなかで郷校の運営も休業状態に追い込まれ、その後の文久年間は数回の集会があったのみでした。慶応元年(一八六五)には郷校が廃止されることとなり、馬頭郷校も閉鎖されてしまいました。これ以後については史料がなく、実態についてはわかりません。郷校は地元の人々の尽力によって下野国でありながら設置され、隣接する近隣の村々からも人々が集まってきました。熱心な学問への意欲は、寺子屋や私塾が次々と開かれたことへもつながることになりました。馬頭郷土資料館学芸員金子智美本棒孝子()馬頭93岩河子()馬頭90星昭三()馬頭86星ノブ()健武82大武好男()矢又99磯野ハナ()北向田97堀江健一()久那瀬38鈴木つね子()久那瀬65(氏名)(年齢)(住所)(氏名)(父母の名)(住所)馬頭町絵図面佐藤陽音はると聡彦景子谷田露久保芽つぼみ昭成子矢又岡あかり裕之美恵小口仁野平蒼祐そうすけ将基麻衣子北向田菅藤輝ひかる秀樹梓松野2月1日現在の人口(住民基本台帳)男女計世帯数人(?7)人(?24)人(?31)(1)9,0168,90017,9166,100()内は前月との比較小川キミイ()松野98五十嵐ケイ子()松野75小幡巴()松野85星武雄()盛泉95大松照雄()大山田下郷79藤澤美好()小砂72齋藤利夫()小砂63助川昭二()小砂87河和崇()小砂55田所克美()小川55内田スミ()小川86加藤リツ子()小川81添田和夫()小川56安藤隆司()小川81磯長夫()小川81関谷祀子()三輪81小森才明()片平46塚原和子()薬利86掲載は希望者のみです。月日~1月日122120受付分敬称略()小杉柚稀ゆずき雅史恵里佳片平星思衣羅しえら大也愛美大山田上郷森川華月はづき悟智友佳松野