広報なかがわ No.114

広報なかがわ No.114 page 17/18

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17広報なかがわ平成27年月10日3郷土の偉人県令北島秀朝北島秀朝は、天保十三年(一八四二)四月七日に大山田下郷の益子家に生まれ、幼名を幸之助、また顕義と称しました。生家は累代、篠尾神社の神官を務める家柄で....

17広報なかがわ平成27年月10日3郷土の偉人県令北島秀朝北島秀朝は、天保十三年(一八四二)四月七日に大山田下郷の益子家に生まれ、幼名を幸之助、また顕義と称しました。生家は累代、篠尾神社の神官を務める家柄で、父が四十一歳の若さで亡くなり、母によって養育されました。兄が夭折し、妹と二人兄妹でした。大黒柱を失った益子家は赤貧洗うがごとき状態でしたが、兄妹は常に励まし合って成長したといわれています。孝之助はこうした環境の中で、独力で文武の修養に励んだと伝えられています。安政四年(一八五七)、地方の郷士・神官等の子弟を対象とした馬頭郷校が開業すると、孝之助も神官の家柄として入校しました。その目的は尊王攘夷の思想を鼓吹することでした。孝之助はここでその思想を啓培され、後に尊攘志士として国事に奔走するに至り、その素地はこの郷校教育で培われました。文久三年(一八六三)三月水戸藩主慶篤は幕府の命により、多くの藩士を従えて朝廷守護のため上洛し、本圀寺に駐屯しました。そこには孝之助も含まれていました。当時の京都は全国から志士が集まり、尊王攘夷を唱えており、こうした中で孝之助は時代の流れが尊王倒幕に向かっていることを認識し、本圀寺より脱藩し、西国の情勢を具に観察し京都に戻りました。機を得て密に倒幕を考えていた岩倉具視と面会し、感化されました。この頃北島家の養子となり、撫名を千太郎と改めます。明治元年征幕軍に加わった千太郎は、東山道鎮総監に従い大監察となり、大いに功績を上げました。江戸に入ると鎮守府民政判事に選任され、江戸が東京と改名されると社寺裁判所判事に、さらに東京府判事に叙せられました。その後、下総開墾局知事となり、禄を失った武士や難民の救済を図り、千葉県北部一帯の開墾を進めました。その功により東京府権大参事に昇進、明治五年には和歌山県令となり、名を秀朝と改めます。翌年、健康を害して辞任しましたが、明治七年に親交のあった江藤新平が地元佐賀で反乱を起こして鎮定されると、その復興のため佐賀県令を命ぜられました。戦禍に疲弊した県の復興に卓越した業績を挙げます。明治九年、佐賀県が長崎県に合併され、北島は改めて長崎県令に任じられました。翌年春、西南戦争が勃発、鹿児島県から利をもって味方になるよう誘われましたが、断固としてこれを退け、県下を警備し県民の動揺を防ぎました。乱が鎮まると長崎県下にコレラが蔓延し、死亡者が相次ぎました。部下を監督し、自らも患者を見舞うなどしましたが、自身も感染、明治十年十月十日、異郷の地において三十六歳の若さで没しました。馬頭郷土資料館館長藤田博雄金子ユキ()馬頭94山本七重()馬頭85屋代イネ()馬頭92西沢美代()馬頭72西沢洋右()馬頭73薄井耕美()健武76田邊博三()矢又44寺田治()矢又79長倉サノ()矢又94髙野カン()小口93岡チヨ()小口90大金ヒサ()北向田91(氏名)(年齢)(住所)(氏名)(父母の名)(住所)長崎市に建つ秀朝の墓碑浄法寺加藤愛莉あいり卓恵馬頭深澤柊人しゅうと晃一静香健武薄井朋杏ともあ健則由紀久那瀬橋本栞華かなは満ひとみ小川3月1日現在の人口(住民基本台帳)男女計世帯数人(?8)人(?17)人(?25)(1)9,0088,88317,8916,101()内は前月との比較平野ミチ()久那瀬90田代ツネ()久那瀬89小森幸雄()松野79菊地サキ()大内95大越コマ()大山田下郷89堀江正美()大山田上郷82橋本勇()小砂62小塙武男()小川90古澤恒子()小川86森島富子()小川82豊田イネ()小川90佐藤一男()白久72植木輝男()白久91杉本ヨネ()片平94杉本フサ子()片平86山田フサ()片平91掲載は希望者のみです。1月日~2月日2120受付分敬称略()伊藤梨紗りさ匡亜希子髙野那生斗なおと哲也知華富山