広報なかがわ No.108

広報なかがわ No.108 page 21/22

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21広報なかがわ平成26年月10日9木の文化を支える・鋸豊かな自然に囲まれた那珂川町では、古くから林業が盛んでした。林業の道具にはさまざまなものがあり、そのなかのひとつに「鋸(のこぎり)」があります。木を切....

21広報なかがわ平成26年月10日9木の文化を支える・鋸豊かな自然に囲まれた那珂川町では、古くから林業が盛んでした。林業の道具にはさまざまなものがあり、そのなかのひとつに「鋸(のこぎり)」があります。木を切る道具である鋸の歴史は古く、鉄でできた鋸が日本でみられるのは古墳時代前期からになります。これらの古墳から出土する鋸は、十~三十センチメートルと小さく、シカの角などの加工用として使用されていたと考えられています。全国でも十数例しか出土例はありません。しかも当時、鉄は大陸からもたらされた貴重なものであり、一般の人々には手に入れにくいものでした。出土している鋸のなかでも古い時期のものとして位置づけられているのが那須八幡塚古墳(那珂川町吉田)から出土した鋸です。長さ二十八センチメートル、幅三・五センチメートル、厚さ〇・二センチメートルの両刃の鋸が出土しています。歯には細目と太目があり、両端には木質が残り、鋸の両端を持って切る形であったといわれています。二枚の鉄板を重ね合せ、薄く鍛えられたしっかりとしたつくりです。また、歯の上に鞘さやを被せていたことが推定され、かぶ現在の鋸の祖形とも考えられています。一方で、大きな木を切るための鋸は、刃先を加工する高度な技術が必要であり、古代ではほとんど普及しませんでした。中世には製材用の鋸である大鋸が日本に伝わります。おが絵巻物などから、大鋸ははじめ二人で挽いて使うものだったことがわかっています。その後、安土桃山時代ころに一人で挽くものに形を変え、五キロを超える重さを利用して木を製材するようになります。江戸時代には木材建築の発展とともに、道具も進化し、大きさや形も変化していきます。現在のように種類も豊富になり、職人の仕事に応じて細分化されていきました。使える木材も多くなり、安価となった木材は広く普及しました現。在、郷土資料館で開催中の展示会「那珂川町の林業」では、戦前まで使用していた製材用の大鋸(写真)や伐採用の窓鋸を展示しています。まどのこ日本の木の文化を支えてきた鋸。現在では電動の鋸も利用され、木の加工は便利になり、道具について考える機会は少なくなっています。しかし、これまで進化してきたその形や用途から当時のようすを振り返ると、人と木とのつながりを垣間見ることもできるのではないでしょうか。馬頭郷土資料館学芸員金子智美齋藤キワ()馬頭89小船スミ()馬頭85田香()馬頭75笹沼みち子()和見75奥村節子()和見74青木敏()松野91井カノ()富山93髙野鉄男()富山87小沼コト()谷川78岡ミサオ()大内89宮田昭男()大内48掲載は希望者のみです。7月日~8月日2120受付分敬称略(氏名)(年齢)(住所)(氏名)(父母の名)(住所)渡邊琳奈りんな聡晶子馬頭9月1日現在の人口(住民基本台帳)男女計世帯数人(?4)人(?24)人(?28)(0)9,0828,96518,0476,111()内は前月との比較大鋸寄贈【8月日受付分まで】20ありがとうございます○図書館へ図書「東京自叙伝」他1冊匿名大山田上郷○社会福祉協議会振興基金へ2万円益子和弘様(健武回)79○社会福祉協議会善意銀行へ8千円匿名(478回)鈴木モト()小砂96積康治()小川84嶋田京子()小川73山口行雄()薬利82()鈴木吾怜あさと修治瞳馬頭笹沼桂太けいた清隆利麗和見小林歩叶あゆと臣徳彩香大山田下郷岡心寧ここね英二舞衣大山田下郷藤田兼伸けんしん欣孝愛小砂