広報なかがわ No.110

広報なかがわ No.110 page 23/24

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23広報なかがわ平成26年11月10日史料からみた広瀬温泉那珂川町のほぼ中央を緩やかに流れる那珂川に箒川が合流した下流の東側に、浸食された崖と丘陵地帯があります。ここが那珂川町小口広瀬地区で、その丘陵の中腹に....

23広報なかがわ平成26年11月10日史料からみた広瀬温泉那珂川町のほぼ中央を緩やかに流れる那珂川に箒川が合流した下流の東側に、浸食された崖と丘陵地帯があります。ここが那珂川町小口広瀬地区で、その丘陵の中腹に広瀬温泉があります。広瀬地区の界隈には、「湯沢」、「湯殿」、「湯の輪」と湯の付く地名が見られます。昔から湯の出る場所として知られていました。江戸時代は那珂川を挟んで西が小川村、東が小口村という構図になっていました。広瀬温泉が初めて史料にみられるのは小川村(現那珂川町小川)の佐藤家文書で万延元年(一八六〇)の史料です。史料によれば、小口村上広瀬河原の村境であった入会地(共有地)に温泉が噴き出しました。この温泉は、双方の村の共有物とし、使用・管理、湯役銭その他の上納金は半分ずつ納めることとしています。その上、湯所について問題が生じた場合は、その都度相談するといった内容のものでした。しかし、この温泉は、湯小屋のような設備の記録はなく、洪水などにより、使用されなかったと思われます。また、小口の大金家の史料によると、明治二一年(一八八八)広瀬上の川原に温泉が湧き出しました。この双方の発見された温泉の場所が広瀬上の川原であることから同じ湯口であったと考えられます。史料によれば、「病傷に療効頗る著しく、遠近に伝わり」とあり、川原に浴場を掘り、その隣に上がり湯として水風呂を設けた簡単な施設で営業していたようです。しかし、現在のような進んだ土木技術がなかった当時、度重なる洪水に見舞われ、営業を続けることはできなかったと考えられます。広瀬温泉開発が本格的に始められたのは、昭和二七年に広瀬地内の那珂川河川敷の開発からです。その結果、摂氏四〇度の温泉が湧き出し、この温泉が、広瀬温泉の先駆けである源泉となりました。その後、県が昭和四五年に策定した八溝地域の開発計画に基づき、観光資源開発として広瀬地内を発掘した結果、温泉が湧き出しました。この温泉は、昭和五〇年に馬頭町に払下げられました。すでに広瀬地区には八軒の旅館、民宿が営業していました。しかし、温泉を持っていたのは一軒だけで、他の七軒は「広瀬温泉利用組合」を結成し、昭和五〇年一〇月に馬頭町と「温泉分湯貸与契約」を結び、七軒に待望の温泉が分湯されました。これにより、小口温泉とともに馬頭温泉郷が確立され、訪れる観光客は一挙に増加しました。馬頭郷土資料館館長藤田博雄佐藤伸()馬頭63石田誠()矢又78小髙信一()和見75岡勧()小口77内藤祐子()久那瀬67大野り久()富山77岡節男()谷川67星千枝()大内89笠井鬼子夫()大那地80谷田部久()大山田上郷88池信()大山田上郷91岡ユキ()小砂90鈴木ふみゑ()小川83佐藤ハル()小川94川上實()小川85佐藤ツヤ()小川87田澤收作()小川80石川粂和()谷田81杉本昭吾()片平86(氏名)(年齢)(住所)(氏名)(父母の名)(住所)那珂川の河原にある温泉の湧出地渡邊翔しょう太た政行友美小川掲載は希望者のみです。9月日~月日211020受付分敬称略()11月1日現在の人口(住民基本台帳)男女計世帯数人(?11)人(?5)人(?16)(5)9,0588,95018,0086,118()内は前月との比較菊地真緒まお宏明真祐美吉田大森空澄そらと詠亮千怜芳井※月号の写真表記に誤りがありま10した。正しくは「小口村温泉源泉」です。お詫びして訂正いたします。大金龍りゅう生せい信也由貴馬頭吉村桃華ももか孝行香織馬頭小泉彩結菜あゆな文哉理美和見渡邉ななみ孝之里生大内清水いろは和行恵小川