広報なかがわ No.105

広報なかがわ No.105 page 21/22

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21広報なかがわ平成26年月10日6光圀、武茂の川狩りを楽しむ6月1日、鮎の解禁により、ようやく川辺が賑わってきました。那珂川水系は、天然遡上の鮎が多い河川として全国的にも著名です。魚ばかりか人々の生活や政治....

21広報なかがわ平成26年月10日6光圀、武茂の川狩りを楽しむ6月1日、鮎の解禁により、ようやく川辺が賑わってきました。那珂川水系は、天然遡上の鮎が多い河川として全国的にも著名です。魚ばかりか人々の生活や政治、文化においても上、下流は結びつき、江戸時代には馬頭地区を中心に水戸徳川領であったことは、皆さんもご存じのことと思います水。戸徳川といえば、黄門様こと光圀が有名です。初代頼房の3男として、寛永5(1628)年の6月日に水戸10城下で生まれました。6歳で世嗣ぎと認められ、歳から34歳まで2代領主を勤め、その63後は隠居し、歳で没する73まで常陸太田の西山荘で暮らしました。光圀が領民の暮らしを把握するため領内をくまなく巡村したことは広く知られています。那珂川町域には、領主として4回、隠居後に5回、あわせて9回にも及び、特に頻繁であったことがわかっています。しかし、これらの巡村が、テレビドラマなどでは誇張されて全国を漫遊したことになってしまいました。隠居後初めてとなる第5回の巡村は、元禄5(1692)年6月日から6日間に及び23ました。鷲子から馬頭、小口、矢倉、三河又新田、馬頭、武茂、大山田、盛泉を通り、大子から西山荘へと戻っています。この行程の中で注目できるものに武茂川での「川狩(かわがり)」があります。川狩りとは、川にいる魚を一度に大量に捕獲することで、投網や叉手網のほか、川を堰き止め、水を干すなどしています。江戸時代後期の博物誌には、6月初夏の風物として、鮎が対象であったことが記されています。第8回の巡村となる元禄(1698)年にも馬頭11と大山田でそれぞれ川狩りを行っています。増加する川狩りの記事から、隠居を待ちに待った光圀の楽しみであったことを想像できます。光圀の好んだ言葉に「先憂後楽」があります。これは、「人の上に立つもの、先に思い悩み、万事成し遂げ、後から楽しむもの」というもので、これを実践したのかもしれません。河川敷で我先にと急ぐ太公望たちを尻目に、「日本経済の回復」「天変地異の収束」その他諸々を「鮎」に占い、「鯰」に念じ、ゆるりと私も竿仕立てを始めることにいたします。生涯学習課・課長補佐眞保昌弘武茂川平館橋から上流を臨む6月1日現在の人口(住民基本台帳)男女計世帯数人(?1)人(?17)人(?18)(+7)9,1189,01318,1316,122()内は前月との比較(氏名)(父母の名)(住所)鈴木市郎()馬頭91大金久子()馬頭65塚原圭子()馬頭83大金ヨシ子()馬頭78大森利助()馬頭60村上章()馬頭82葛西稔()健武69酒主松茂()和見85小幡嘉一()松野66戸部勉()盛泉67鈴木タネ()谷川83大森一男()大内88小髙チヨ()大内90星和夫()大内86地チヨ()大内100磯キシノ()大山田上郷86秋元典夫()小川52船山ミサ()小川96大島定壽()小川82田所幸子()小川66橋本啓()小川88福島フシヱ()芳井94青柳利子()三輪97穴山千代()浄法寺88掲載は希望者のみです。4月日~5月日2120受付分敬称略()(氏名)(年齢)(住所)青木馨かおる藍崇馬頭大森匡人まさと岳史貴美子馬頭田所快晴かいせい麻伸理子馬頭佐藤颯汰そうた慶一美咲健武小倉奏真そうま英樹綾乃健武川又結彩希ゆずき直道みどり大内大金栄渡ひでと博之友紀大内鈴木蘭らん翔しょう直樹真央小川星司音しおん将司明日香小川