広報なかがわ No.107 page 19/20
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19広報なかがわ平成26年月10日8那珂川町と漆うるし豊かな森にかこまれた那珂川町には多くの自然資源があります。その中のひとつが「漆(ウルシ)」です。漆は「うるわし」「うるおし」などが語源であるとされ、樹液....
19広報なかがわ平成26年月10日8那珂川町と漆うるし豊かな森にかこまれた那珂川町には多くの自然資源があります。その中のひとつが「漆(ウルシ)」です。漆は「うるわし」「うるおし」などが語源であるとされ、樹液は塗料、接着剤、漢方薬、果実はロウなどとして利用されてきました。防腐作用、防虫効果、熱、湿気に強いなどの特性があり、六月下旬から十一月下旬の時期に採取されます。縄文時代から利用されていたことがわかっており、北海道では約九、〇〇〇年前の墓から漆製品が出土しています。土器や木製品に漆が塗られ、高い技術があったこともわかっています。また、東京都や埼玉県では漆の樹液を採った痕が残る木もみつかっています。漆の木を栽培するには、下草刈りなどの管理が必要であり、当時から漆の木を管理して栽培していたと考えられています。那珂川町も漆とのかかわりは古く、那珂川町小川に所在する上宿遺跡では、八世紀中うわじゅくいせき頃の漆が付着した容器や麻布、固まった漆片が出土しており、漆工房があったと考えられています。古代においても漆は貴重品であり、美しい漆工芸品が正倉院などに保存されています。昔ばなしなどでは高価な財宝のたとえとして「うるし千杯」と使われることもあります。特に馬頭地域の土壌がウルシ栽培に適していたようで、明治三十年(一八九七)には旧馬頭町、旧武茂村、旧大山田村で漆の栽培をしており、合わせると三トンを超える量を生産しています。地域の産業として「漆」の植林を奨励し、生産していたことが要因と考えられます。しかし、大正期以降は漆の栽培にかわり、生産性の高いたばこ耕作に転換していき、生産量は減少していきました。そのため大内地区、富山地区、松野地区、大那地地区に組合が設立され、生産を増やしていきました。ところが、太平洋戦争が激しくなった昭和十七年(一九四二)には漆にも統制が及び、木の所有者も勝手に伐採することができなくなり、漆の採取にも知事の許可が必要となってしまいました。戦後、再び生産量の増加を目指しましたが、昭和三十年以降は化学塗料の普及や仕事の不安定さなどから、町内の漆栽培農家は葉たばこ耕作へ転換していき、現在は一軒を残すのみとなってしまいました。外国では漆や漆器を「japan」と呼び、日本を代表する工芸品となっています。その産地のひとつが那珂川町であることをぜひ知っていただければと思います。(馬頭郷土資料館学芸員金子智美)白井よし()馬頭99佐藤光子()馬頭56大髙ミツヱ()健武90星榮二()矢又77小川壽男()松野91髙野江()富山87関修一()盛泉77佐藤憲男()大山田上郷91益子トキ()小砂86北村幸()小砂83掲載は希望者のみです。6月日~7月日2120受付分敬称略(氏名)(年齢)(住所)(氏名)(父母の名)(住所)郡司ゆう陽ひ浩之由美子馬頭8月1日現在の人口(住民基本台帳)男女計世帯数人(?23)人(?17)人(?40)(?12)9,0868,98918,0756,111()内は前月との比較(漆かきの道具)寄贈【7月日受付分まで】20ありがとうございます○奨学基金へ万円塚原廣様10(馬頭)○社会福祉協議会振興基金へ2万円益子和弘様(健武回)78万円塚原廣様10(馬頭)2万4251円JAなす南ふれあい感謝祭○社会福祉協議会善意銀行へ8千円匿名(477回)小堀セン()小川85阿久津良榮()三輪66()森島怜那れな章博美幸小川川上宗茂むねしげ二郎美樹小川薄井琉空りく雅彦ひとみ小川髙野立葵りつき一也通代谷田佐藤陽太さんた武由香里薬利